めがね

かもめ食堂」にしびれた人ならどうしても見たい、荻上直子の最新作。


かもめ食堂が「中に入って周囲影響を与えていく」物語ならば、
「めがね」は「中に入って周囲から影響を受けていく」物語という、
話の構図が逆になっているのが最初の印象。


作中の世界はただひたすらに「静」(「たそがれ」)で、主人公は最初自身のペースとの落差に戸惑うのだけれど、この「静」の世界というのは元々は我々の世界の一部であって、決して隔絶された非日常の世界ではないのかもしれない。ただせわしい現代の日常に埋没してしまったせいで浮かび上がってこないだけで。
日常の生活は、仕事であったり、家事活動であったり、そうは思わなくともせわしいものだ。そのせわしさに振り回されていると、その「動」の状態が日常のすべてであると感じられてしまう。つまり「静」はすでに非日常。
でも人間はおそらく「動」と「静」のバランスが程よくとれているのが理想で、「動」の状態に振り回されていると疲弊してしまうし、かといって「静」の状態にかまけていると生きる感覚が鈍っていく。


作中の世界は「こういうの(だけ)が理想だよね」という語り方をしていない、というのに気づいた終演間近。車の窓から顔を出したときにうっかりメガネを落としてしまうシーン。タイトルどおり登場人物はみんなメガネをかけているのだが、そのメガネが手元から離れたときが、一旦その世界の住人ではなくなる瞬間であり、その世界からいつもの世界へ戻っていくメタファー、などと考えるのはうがちすぎか。いつかはそこから離れなければならない、でも戻るべきときにいつでも戻れる世界。


世界がサクラさんを中心に回っているので「あやしいナチュラリスト集団」という見られ方をされるのも仕方なし(自転車のシーンでのもたいまさこの目は怖かった!)だが、こういう世界を自分の中に持っていたり、たまには積極的に「たそがれ」たりするのもいいかもね、などと。