匂いという記号と、「愛」

昨日の続きというか補足。


なぜグルヌイユ(主人公)は女性の体臭を「保存」することに固執したか。その体臭によって喚起される感情・欲求を充足させる方法を他に思い起こせなかったから。有り体に言えば、「性欲」というものが、それこそ「全く」なかった、あるいはそれまでの人生過程で「そうあるもの」として獲得されなかったからであろう。この点で、この映画は一種の「コミュニケーション不全」を表した作品といえる。
グルヌイユは目当ての女性を捕まえて命を奪っても、けしてその肉体には関心を寄せず、ひたすらその香りを貪るように吸い込もうとする。だからだろうか、数々の女性の裸体がスクリーンに映し出されても、観客はその裸体に興味は向かない(そのほとんどが「死体」だったから、というのもあるだろうが)。あれほど話題になったクライマックスの「群集乱交」シーンも、むせ返るような熱気、というのは一ミリも感じず、その寂寥さに感情が乾いていくようだった。


ところで、グルヌイユには体臭がない、ということをにおわすシーンがある。これが彼の思い違いでなければ、「匂いによって喚起される愛」の前で、彼は「無」の存在である。どんなに周囲に「愛」が満ち満ちていても、彼がその中に受け入れられることはないのである。これは相当に残酷なことである。