きっと日本の法曹界・警察って変態の集まりなんだよね

痴漢の被害者の側は「勇気ある発言・行動」と評価されるのに、容疑者が確信を持って無罪を主張すると「反省の情がない」といわれてしまうんだから。「男だったら女のケツ触りたいでしょう」と思っているのは他ならぬ警察・裁判官であり、痴漢としてつかまったら最後、ただでさえ聖職みたいな扱いで溜まってるのに、目の前の人間がうらやましくて有罪にしているに違いない。
と挑発的に悪態をついてしまうのは、「それでもボクはやってない」を見た後だから(正確には一週間くらい前)。温厚な僕?をここまでにさせるくらい、警察役の大森南朋もよかったし、なにより判事役の小日向文世の冷徹さは、殺したくなるほどすごかった。
これがハリウッド制作だったら最終的にはハッピーエンドで、「You've made it!!」なんて叫びながら肩車しつつワッショイ、みたいなシーンのラストになってしまうんだろうが*1、この作品のラストを見て、実はしばらく動けなかった。マリー・アントワネット」を先に見ておいてよかった。ネタバレギリギリでいうが、さんざん積み重ねてきたものが、最後に徹底的に否定された瞬間、ホントに重々しい気分になった。そして、「これが(刑事裁判の)現実なんだ!!」という周防監督のメッセージが凝縮されたシーンでもあった。


ただし、ここまで共感し、憤りを覚えることができるのは、全編を通して「容疑者」つまり「冤罪被害者」の視点で眺めているからである。映画の中の裁判は確かに非常に馬鹿馬鹿しく見えるが、「ひとつも間違った手順を踏んでいない」。全くの第三者であれば、この裁判をここまで疑ってみられるかは疑問である。
素人目からひとつ問題点をあげられるなら、主人公の最後のモノローグからそれが見えてくる。

僕は初めて理解した。
裁判は真実を明らかにする場所ではない。
裁判は、被告人が有罪であるか、無罪であるかを集められた証拠で、取り敢えず判断する場所にすぎないのだ。

裁判はひたすら「有罪」か「無罪」かを争う。証拠上は優位に立っている検察は、自分に不利になるのなら証拠提出は拒む。そこには「有罪を勝ち取る」という視点のみで、「真実を明らかにする」という視点はない。ある犯罪の被害に対し、エンドマークが付けられることが大事であり、真の加害者はともかく、スケープゴートを作ってそれに罰が与えられればよしとするのが、日本の裁判だということだ。これでは、近世以前や悪名高い治安維持法による「拷問」と大して違いはない。
まずシステム上の問題。映画の中でも語られているが、裁判官の業務評定システム等が、裁判の迅速を促し、結果事実の精査がおろそかになっている可能性。もう一つは哲学の問題。裁判はゲームではなく、法に則った、つまり過不足のない量刑、あるいは事実認定の厳格さ、「疑わしきは被告人の利益」という、誰でも知っている理念の徹底、等を再確認していくこと。
この映画は「冤罪にされてチョーくやしい」というものではなく、司法という、日本の三権の一翼を担う重要な機能の、システム上の不備と哲学の貧困を問うものである。
痴漢冤罪に絞れば、このまま漫然と判例を積み重ねていくのは適当ではない。証言などに頼らずに、物的・状況的証拠等の要件の精査を徹底させ、手続きを洗練させていく必要があるだろう。特に専門家でもないから、何とも言えないけど。

*1:ハリウッドの法廷もので覚えているのは「Ally McBeal」とか「PRACTICE」ぐらいだけど、この2作品でも、実は後味の悪い、というか、バッドエンドの作品は結構ある。