食卓に「ゲルニカ」のある風景

学芸員らしき男が、くたびれたスーツの男と話している。脇にいる若い男は、さっきからずっと、空間に映し出されたスクリーンに向かって、なにがしかの命令を出し続けている。
その社会はもう何年も子どもが生まれず、人類絶滅の危機に瀕していた。学芸員らしき男は、人類の遺産を残すため、世界中の芸術作品を収集している。
そこは彼らの食卓。その部屋にはピカソの大作、「ゲルニカ」が飾られている。
僕はその場面を見ていて、違和感を覚えていた。阿鼻叫喚の戦争絵図「ゲルニカ」が、その芸術的価値のみのために、食卓に飾られている、その感覚がどうしても受け容れられない。
同じようなことを考えたのは高校時代。合唱部が新入生歓迎会において「海はなかった」*1を演奏したのを聞いたとき以来だった。その違和感を隣にいた友人に吐露したが、「考え過ぎじゃないか」と一笑に付された。しかし、今でも「あれはない」と思っている。
どう考えてもその場にそぐわないものを、「芸術だから」という理由で、疑いもなく飾ってしまう感覚は、むしろ「芸術を理解しない」人間の所業ではないか。「ゲルニカ」に限っていえば、ピカソはそれを、戦争下の庶民の苦しみを訴えようとしたもので、食卓に高級な雰囲気を与えるために描いたのでは、決してないのである。


まあ、http://d.hatena.ne.jp/fjb1976/20061202/1165050348の続きなんだが。

*1:知っている方もいると思うが、内容は「飛べなくなった鳥たち(=若者たち)への鎮魂歌」と、僕は解釈している。