「讃岐うどんが好き」って言いづらくなった

 インテリは、自分が選んだ映画を観る、ということに利便を感じるが、大衆には選ぶことなど面倒なのである。ただ流れている番組を観ているほうが楽なのである。第一、友達との会話のネタだって、その最大の供給源はテレビだろう。
テレヴィジョンは不滅か - 猫を償うに猫をもってせよ


となると、テレビの役割は非常に重要になるはずだが(物事の本質を伝えることとか)、表面的な「おもしろさ」を追求しがち。媒体のもつ視覚的「わかりやすさ」や、「なんとなく電源をつけておく」というような視聴の仕方が、テレビの刹那的軽さの原因だろうか。
小泉劇場」と揶揄したって、劇場化させたのは結局テレビだからな。
また、個人的にはネットでニュースを見るのは、回線が細いせいもあるが、正直面倒くさい。興味のある分野に偏りがち。


(ここからは引用元のエントリーの主旨からは外れます)
映画に関しては、自分で見るものを選ぶのがいいと僕も思う。音楽に関しても然り。
学生時代は時間があったから毎週のように映画館に行き、レンタルビデオでも、「4本1000円」というのにつられて、毎週のように通っていた。ついでにタワーレコードに寄って、何時間も試聴しながら、2,3枚、多いときで5枚ぐらいCDを購入して家路につく、という行動パターンが定着していた。主な情報源は「ぴあ」だった。


最近は余り時間が取れなくて、映画を見に行く回数もだいぶ減った。それで気づいたのは、自分の見たいものを選ぶ能力というか、気力が萎えてしまったことだ。見るものを能動的に決めていたのが、どこかで「おもしろいらしい」といっているのを参考にして決めているような気がする。「はずす」ことは少なくなったが、「大当たり」もなくなった。
映画館やレコード店というのは「通うもの」だと思っている。外部の雑誌や番組でも情報は集まるが、専門店で実際に触れる機会を持った方が、面白そうなものに対する判断力は付く。
映画館にはビラもあるし、予告編も上映される。これらには、テレビCMだけでは伝わらない、作品の持つ雰囲気が出ている。それを感じ取る嗅覚が、映画選びには必要だと思っている。
「本物を選ぶ能力が俺にはある(あった)」などとは夢にも言うつもりはないが、自分が見たい(聞きたい)もの、見て(聞いて)気持ちのいいものを見つける能力(というよりは習慣といった方がいいのか)があった方が、もっと楽しめるし、鑑賞も深まるんじゃないだろうか。


とまで書いたところで「映画や音楽が好き」という人間自体そんなに多くないんじゃないか、とも思えてきた。好きじゃないもの無理して見ること無いやな。