初詣


元旦はお寺やら神社やらはどこも混んでいる。たいがいひとの流れは誘導され、道なりに列を組み、えっちらおっちら進むことになる。
境内に入るまではなんとか列を乱さずに(といいつつもどう考えてもそこに列はなかっただろうというところに列が出来てたりするのだが)これたが、境内に入ってしまえば露店やらみくじやらに人々は吸い寄せられ、列は際限なく広がり乱れ、自分で目的を定めておかないとどこにも着地できないような気がする。
人の流れに乗っていれば、そのうちきちんとお参りできる場所までたどり着けるはずなのだが、理由はわからないが一秒でも早くお参りしたいひとというのがいるようで、こちらをよけもせず、愚直に進んでいく人が多い。世の中おとなしく順番に進むことに我慢できない連中もいるようで、我が我がというようにせり出してきて、背中を押され荷物を引っ張られする。自分たちも家族ときていたのだが、気をつけていないと互いに見失いそうだ。母は脚を悪くしているし父もそれなりに老いているので、ひとごみの中ではぐれさせてしまうと心配になってしまう。
ふと「初詣システム」という言葉を思い出した。同じような目標に向かって進んでいるようで、段階ごとにひとが減り、お参りをする頃にはその人数は当初よりずいぶん減ってしまう。日本の学歴社会を例えたこの言葉を思い出したのは、性急な人の流れに「利己的な心情」を見出したからであろうか。
自分は周囲の人間ともちろん自分の身の安全のために、できるだけ互いの間隔はあけておきたいし、自分のペースで進もうとすると誰かに接触しもしかしたら転ばしてしまうような状況の時は、なるべく道を譲った方がよいと考える。露店やおみくじ・お守りの類の店を眺めながら、その華やいだ雰囲気を楽しみたいとも思う。だがそのようにのんきに歩いていきたいのならば、自分はこのひとの流れをいったん離脱しなければならないし、また再び戻ることがすんなり叶うとも限らない。ふと「この流れに乗れなければ自分はずっと仲間外れだ」という感覚がおそってくる。
「ひとごみはいつも息苦しい」と、チョコバナナをかじった。