一人称の青春映画

昨日見た「幸福な食卓」で、佐和子と大浦くんの関係が非常に羨ましかった。
それは、「俺にはこんな甘酸っぱい思い出ねぇよ(ウワァン)」というものではなくて、ここまでピッタリ合った”友情”はなかなか得られないだろうなぁ、ということ。映画ではそれが男女だったから恋愛という形に発展したけど、たとえば男同士、女同士でも、こういう関係は得難いだろう。
まるでジュニア小説から飛び出してきたような大浦くんのキャラクター(原作読まないうちからこういう言い方はなんだが)は、リアルだったら「参ったな」とか思うんだろうけど、お互いに刺激しあって、それでいて一緒にいることが自然というか、ちょっとホッとできる、佐和子にとってはそういう対象だったのだ。佐和子が大浦くんの口癖を真似てみたりするのは親密さの表れであり、恋愛面での表現が抑制された感じがするのは、10代の初々しさもあるんだろうが、イチャイチャベタベタ情熱的な関係ではなく、いい意味での「空気のような存在」だったという点に負うところが大きいのだろう。


でも、大浦くんの気持ちがストレートにわかる場面というのは、実はほとんどない。彼は自分の気持ちを率直に表現する性格という”印象”があるからまだはかりやすいが、最初は「初対面でなんでここまでかまってくるんだろう」という感じで、最後の最後で種明かしのように示されるのが、唯一はっきり示されるところだったのではないだろうか。そして、彼の「死」の場面も、「そこまで端折るか」という表現をしている。
その他の点でいえば、物語の重要なファクターのようにみえる「父の自殺未遂、あるいは”脱<父親>宣言”と医科受験」とか「母の家出」、「兄の農業修行」など、その動機が、抽象的に語られることはあっても、本編が終了するまで、ついに明かされることはなかった。
そういう諸々の点を考え合わせて、これはあくまで”佐和子視点”で描かれる、一人称の青春映画なのだな、と思い至った。
この映画で、「佐和子のいない場面」というのは一つもない。この点を、最初は「やっぱりアイドル映画なのかな」と思いながら見ていたんだが、”佐和子視点”ということなら納得がいく。観客は映画の中の事件を追いつつ、他の登場人物の気持ちや行動の動機を完全に理解など出来ない一方で、”佐和子”というフィルターを通じて、諸々の事件を通じて起きた感情を追体験する。
そこに”共感”のようなものが生まれるのは、その感情を、間違いなく我々が感じたことがあるからだ。「大事な人との別離」「家族との心理的距離感」など、ほとんどの人が思春期に通過してきているものが、デフォルメ、あるいは誇張して描かれている。映画ほどドラマチックではないにしろ、自分が確かに経験してきたことを、”佐和子”を通じて「思い出している」のである。
完全には吹っ切れていないけど、なんとなく前向きにやってみようという気持ちは、確かに自分にも覚えがあるのだ。


あ、あと「切磋琢磨」は(中学生の)テストには出ねぇよw