パクリ、盗作

槇原敬之に「999」盗作騒動
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061021k0000m040142000c.html
槇原敬之の歌詞は説教くさくて、以前からそんなに好きではないからどうでもいいが、「盗作だ」「パクリだ」という話を聞くたびに、えらい違和感を覚える。
「○○のフレーズは△△のパクリだ」という話は、音楽系の雑誌で半ばネタ的に語るのが面白いのであって、大真面目に「謝罪したらどうなんだ」となると「必死だな」という印象を禁じ得ない。
「自分の書いたものと似ている」から盗作だと言ったら、表現活動は早い者勝ちのやったもん勝ちだということか。世間に出回っているコンテンツで、100%オリジナルといえるものなんてあるのか。
下段の記事で指摘されているものから、該当部分を引用してみる。

こころをばなににたとへん(朔太郎)
心を何にたとえよう(宮崎)

似ていると言われればそうだが、良くあるフレーズじゃないか?使い古されたフレーズでオリジナリティを云々されても。

音なき音のあゆむひびきに(朔太郎)
音も途絶えた風の中(宮崎)

どこが似ているの?情景は同じかもしれないが、言葉の選び方に共通点が見られない。

たえて物言ふことなければ(朔太郎)
絶えて物言うこともなく(宮崎)

ああ、これは似すぎか。朔太郎の文語的表現を口語的に置き換えているだけといえるかもしれない。


限りなくグレーに近いとはいえるが、これで盗作というのは無理があるよ。
この件では、爺様たちが、いかに後発の者たちの将来より自分たちの保身を考えているのか、良おくわかった。