「紀子の食卓」

新宿のケイズ・シネマに、初めて行ってきた。
東京の映画館というのがいまだによくわからなくて、渋谷のナントカいう映画館(「Party7」を見に行った)しか行ったことなかった。
今日行ったところは、オフィス・マンションを1フロアぶち抜いたような感じで、「こんなところで映画館できるんだぁ」と、妙に感動した。席数はだいたい100席。いい感じのこぢんまりさで、かなり気に入った。
入って最初に目に入ったポスター。「北乃きいカワイ…」おっと、これは本題じゃない。
白を基調にしたフロアは、新しいのか、きれい。広くはないけど窮屈に感じず、明るくて居心地はいい感じ。
壁にあった監督インタビューの記事コピー。インタビュアーは宮台真司だったが、宮台しゃべりすぎ。


映画館の講評はこれぐらいにして、今日見に行ったのは「紀子の食卓」。「自殺サークル」という作品の世界観を引き継いだ話だ。監督脚本は同じ園子温。この人が詩人だったというのは昨日か一昨日知ったばかりだが、男性だったというのは今日知った。なんとなく女性だと思っていた、なんとなくね。
「レンタル家族」というモチーフなんだが、キーワードは「関係」「役割」「演技」。「ロールプレイ」のオンパレードだ。「レンタル家族」の過剰な演技に、かなり居心地の悪さを感じた。


これはパンフの監督インタビューでは触れていなかったから、本作の主旨に沿わないかもしれないんだが、個人的に気になったのは、”廃墟ドットコム”の中心的(?)人物の「講義」の中の言葉。うろ覚えだがだいたい次のようなこと。

みんなライオンになりたがって、誰もウサギをやろうとしない。

「コンドルは飛んでいく」みたいだが、みんな「叩く」「いじめる」側にいたくて、「叩かれる」「いじめられる」側にはなりたくないということ。しかし、誰かが叩かれなければ、その「関係」は安定しない。だから彼女たちはその「役割」を「演じる」。結果として、殺されたり、自殺したりもするのだが、そのことは「高いステージに行くこと」として、歓迎され、祝福される*1
これって、今(だけじゃなくて昔から)現実に起こってることだよなぁ。叩く対象見つけると、みんな喜々として責めるよね。やれ「ニート」だ「ヲタク」だ「ホリエモン」だと。叩く側は「義憤」だと思っているが、その実みんなそこからカタルシスを得て、自己を安定させてるだけなんじゃないかと。「じゃあそのやられ役、私たちがやりましょうか」というのが、彼女たちだったということだ。


そんなロールプレイ御免こうむりたいな。なんとかそのサークルから降りられないものか。


そんなことを考えながら、エンドロールを眺めていた。制作者の意図をきちんと受け取れているか自信はない。僕はお行儀の悪い観客かもしれない。

*1:ごめん、これかなりのネタばらしかも